憎しみ

実はいま,私は,ある人のことがとても嫌いで,憎んでいて,そばにいるだけで許せなくて吐き気と気分の悪さが生じるくらい憎んでいる。涙が出るほど憎んでいる。

ことわっておくが,その人はこのブログの存在を知らないので,このブログの読み手の誰かではない。ちなみに大人である。

苦しくて苦しくてしかたない。

どうして苦しいのか考えてみた。

憎しみという感情をもってはいけないと考えているからかもしれない。

→私はそれほど高潔な人間なのであろうか。私は憎しみという感情をもたない,きれいな部分だけで生きていられる高貴な存在だとでも思っているのだろうか。だとしたらそれは思い上がりだ。怒り,憎しみ,嫌悪感,そういう感情も人間はもちうる。それから逃れることはできない。ええ,決してできない。苦しくても「自分は憎しみという感情をもっているのだ」ということを認めねばならない。認めて,受け容れて,耐えること。

相手が思うとおりに動いてくれないからかもしれない。

→自分と未来は変えられる,他人と過去は変えられない。相手は相手の意思があるのだから,自分の思うとおりに動くなんてことはありえない。

相手が自分の気に障るようなことをするからかもしれない。

→前述のとおりで,相手は相手の意思があり,自分とは別の人間なのだから,自分の気に障るようなこともする。自分が相手のためにと思ってしたことも,簡単に踏んづけられてなかったことにされても,仕方ない。

その人は,私をいいように使う。「便利屋」として使う。自分の都合のよいように動いてくれて,私はNoとは言わないと思っている。それは私がNoという強さをもたなければならない。私はこうしたいのです,だからあなたの都合には応じられません,と言わねばならない。

その人は,悪気なく私を傷つける。私の心をずたぼろにする。「傷つきました。私は怒っています」と私が伝えないといけない…いやこれが,全然伝わらないのだけれど。その人には。

私は基本的に性善説というか,人を傷つけたり陥れたりする人はいないと思っているめでたい人なので,この人が悪気なく自分を傷つけたり陥れたりということをするとは思ってなかった。

結局は私が変わらなければならないのかもしれない。涙が止まらない。

自分が相手のためを思ってしたことも,それは自分の自己満足なので,裏切られても,反故にされても,感謝されなくても,否定されても,かまわないと思う強さをもたなければならない。

人生はあきらめでできている。あきらめればいい。何もかも。