にっき。
つらい,しんどい,もう嫌だという気持ちについて,最近よく考えている。
つらいと感じることはいけないことだと思われている。でも,つらいことしんどいことがない人生なんてあるだろうか。つらいときはつらい,しんどいときはしんどいんだとしっかり自分で認めてやることが必要かなと思う。
でも,つらいしんどい状態が続くのはしんどい。出口がないように思える。
いつかは,つらくなくなるよしんどくなくなるよきっといいこともあるよなんて無責任なことは私には言えない。未来は何が起こるかわからない(1年前,2020年のオリンピックがなくなりコロナでこんな状態になるなんて誰が予想していただろうか)
でも,なにか,いいことはあるんじゃないかと思う。
やっぱり無責任か。
私も最近とてもつらくてしんどいけれど,さっき日の出がとてもきれいでした。トータルで見ると今日はとてもしんどい日になるんじゃないかなぁとも思います。それでも,朝焼けを見ただけでけっこう元気をもらえました。かな。
うん。
Twitterと身体感覚まとめ
最近はTwitterで主に呟いているが、たまに思ったことをこうしてまとめてみる
時代の流れにしたがって各種SNSを使っている。公開のものも非公開のものもある。スマホもパソコンも持っている。Twitter、LINE、Facebook、messenger、ブログ。
時と場合によって使い分けだと思う。
最近はTwitterで呟いているのでTwitterの情報が主に目に入る。Twitterの情報を追うのも疲れると思うことがある。そういう時は距離をとる。直感的に「これ以上追うと自分にとってしんどくなる」と思うことがある。そういう時は無理をしない
自分の身体感覚。
頭で考え過ぎて自分の直感を失っていないか。しんどいという気持ちや感覚にふたをしていないか。天気予報ではこういうデータだから暑いはずとか、体温血圧がこういうデータだからしんどいはずとか、そういうことではないだろう。
数字でなくて自分の身体感覚。ということを大人も子どもも忘れていると思う時がある。
Twitterを見ると、できる時にできる人ができることをすればいいと思う。できることはできるができないことはできない。できない時に「お願いします手伝ってください」と言うのも頼むのも「自立」だと思う。
梅雨時です。梅雨の季節は身体感覚を無視しがちでしょう。祝日もなく暑くなってきて体調を崩しやすくなります。皆様ご自愛くださいませ。
私がそれでも書く理由…「生きてるだけですばらしい」が弱者を殺す - decinormal
ブログなんて書かなくても生きていけるのに、なぜ私はブログを書いているのかと考えると、結局、「私はここにいます」ということを知ってほしいからかもしれない。まぁ、私ってば、なんて寂しがりで自意識過剰なんでしょう。
以下の記事は少しでも多くの人に読んでほしい。
見知らぬ誰かや不特定多数の誰かに向かって「あなたは生きてるだけで素晴らしいのよ」と、私は言えない。そんなことを言うのはおこがましいと思う。見知らぬ人だから。
私の直接の知り合いや、私と関わりのある人には、私は「ありがとう」と思っている。なかなか会えなくても心を支えてくれているから、その意味では、「あなたは生きてるだけで素晴らしい」と思っている(と思う)
私自身は落ち込んだり泣いたり怒ったりネガティブなところもネガティブな時もたくさんある。もう人生終わりにしたいなーなんて思うこともないとは言えない。自分で自分を好きになれない面もある。自分のこういうところは嫌だ、自分で自分が許せない自分が嫌いだと思うこともある。それも引っくるめて、私はいま、自分が生きてることを幸せに思う。
ネガティブでも、いいじゃない。泣いても怒っても死にたくなってもいいよ。
死にたいと思っている人に、私は「生きてるだけで素晴らしいから元気出して生きよう」とは言えない。だって死にたいと思うくらいしんどいんでしょう?限界なんでしょう?そんな人に、いつかいいことあるから…なんて言えない。その人にいつかいいことあるかどうか私は保証できないから。責任もてないことは私は言えないから。しんどいんでしょう。つらいね。死にたくて絶望だよね。
でも私は、知らないあなたにも生きててほしいなーと思っている。元気になろうよとは言えない。元気で明るく笑ってなくても、涙流して号泣してつらくてつらくて仕方なくてもいい。
明るく元気にいつも笑って生きるなんて無理。それは無理。難しい。でも泣いても怒っても心臓が動き生命活動を続ける体があることを(身体的に完全に健康でないとしても)私はとても大切に思う。
何の話かわからなくなったから今日はこのへんで。
「生きてるだけですばらしい」が弱者を殺す - decinormal https://decinormal.com/2015/09/01/life_beautiful/?utm_source=ReviveOldPost&utm_medium=social&utm_campaign=ReviveOldPost
病気を治すということ
世の中にはいろいろな人がいる。
私は現在、入院している。病気であるから、入院している。
その場には様々な患者さんがいる。息子の入院していた病院にも様々な患児さんがいて、様々な患児さんのご家族がいらっしゃった。
病院の中で、外で、いろいろな人と出会った。関わった。話をした。助けてもらったり助けてあげたりした。今も。
私は病気である。病気で日常生活に差し障りがあるから入院している。
他の患者さんや友達は心の支えになるけれど、病気を治してくれるわけではない。
他人の課題は他人の課題
自分の課題は自分の課題
自分の課題を放っておいて他人の課題や他人の領域に踏み込むのは筋が違う。
結局は自分が健康になりたい元気になりたいという治療意欲をどこまで持てるか。
そのために、医師、看護師、その他スタッフ専門家の助けを適切に借りるスキルを身につけるのが私の課題だ。
元気になります。自分が笑って毎日を過ごすために
入院
息子が入院してました。で、私も諸事情でいま、入院してます。
入れ替わりでの入院でした。
先日、息子が昼の13時に退院。翌日の昼に私が違う病院に入院を前提とした受診。
というわけで、先日には息子の病院に行って保護者(家族)として手続きをし、自宅に戻って買い物、片付け、息子の保育所に行って連絡事項確認と連絡(電話で済ませればいいのにと今から考えると思う)、息子の習い事の連絡、をしながら、息子の着替えと食器と洗面セットと各種書類をカバンからごっそり出し、代わりに自分の着替えと洗面セットと各種書類をカバンにごっそり入れました。
で、翌日の昼に自分が入院して、また手続きをして、この間に何回自分の名前と子どもの名前と自宅住所電話を書いたかという感じです。
私は小さい頃から入院経験がほとんどなく、身近にも長期入院した者が少ないので(ありがたいことです)、入院という経験が不思議です。病院や受診科で違いますが、入院患者のために、看護師、医師、掃除の方々、食事関係の方々(調理する方や栄養士)、その他(息子の病院だと病棟保育士など)いろいろな人が関わり動いて下さっていて、心身の健康とはなんだろうかと思っています。
頭で考えすぎかもしれません。日常生活に差し障りがあるほど心身の健康状態が損なわれているから入院、なのでしょう。
書評「学校へ行きたくない君へ」
とても良かった。不登校の話だけでなく、世の中とは何か、生きるとは何か、大人とは何か、社会の中で生きるとはどういうことかということについて考えさせられた。
私は「学校には行かねばならない」と考えていた「優等生」だったので学校はほぼ皆勤賞だった。
でも、大人になったいま、「学校の言うこと学校の教えること学校でしなければならないとされていること」は、必ずしも「正しい」とは限らないと思っている。
いろいろな人のインタビュー記録が掲載されていて、インタビューした人は不登校の当事者であるのが良かった
学校に行く行かないに関わらず、人を生かすのは「何かが好き」「これが自分の強み」というものであろうなと思った。それを細く長くあきらめずに続けていけば、学校行く行かないに関わらず、道が開けるのかな。