ありとだんごむし

玄関先に,蟻がたくさん集まっていて,あら?何か庭にお菓子のかすでもこぼしたかしらと思ってよくよく見てみると,死んだダンゴムシに群がっていた。

いま,ネットで調べてみると,ダンゴムシの天敵は蟻だと言われるくらいらしいので,すでに死んだダンゴムシに群がっていたのではなく,ダンゴムシを殺してエサにしていたのか。

虫という未知の世界の,食うか食われるかの必死の自然を見たと思った。

待つ

たぶん子どもがうまれて仕事を少しずつでもはじめてから、だろうけれど、待つことがとても苦手になった。

研究者、大学非常勤教員、母親、主婦をしていると、しなければいけないことがいくらでもある。

今も、お盆のお寺さんのお参りがあるというので実家に来ているのだが、10時半頃と聞かされて来たのだが、いま(11時05分)1軒前の家のお参りに向かうそうで、11時半やん、みたいな。

それからスーパーに買い物に行って、洗濯物をとりこんで、お茶沸かして、ちょっとリフレッシュもしたいし図書館…はもう明日にしようかな…息子の夕食のおかずを作ってきたのがまだ幸いである。あれこれしていたらたぶんもう16時になって、16時といえばお迎えに行かねばならない時間で、あぁ、今日は仕事ができないわ、ちーん、という感じ。

やらなければいけないことは先に先にやってしまいたい性格なので、すごくあせる。

そんなにあせってどこへいく、私。

心理的にも物理的にものんびりしたいなぁ、のんびり過ごせる人間になりたいなぁと思うし、待つ時間を仕事や義務で埋めるのではなく、なんか面白いこと見つけてやろうくらいで過ごせればいいのになと思う。

思うけどなかなか変われないのだなぁ

化学反応

化学反応とは。

化学反応 - Wikipedia

kotobank.jp「物質が化学変化によって他の物質に変化していくこと、特に、その変化の過程」
「物質がそれ自身あるいは他の物質との作用によって別の物質に変わる現象」

「1種または2種以上の物質がそれ自身あるいは相互間で原子の組換えを行い,もとと異なる物質を生成する変化で,化学変化と同じ意味で使われることが多いが,とくに変化の過程を化学反応という」

だそうで,では化学変化とは

kotobank.jp「物質の構成成分の原子間の結合に組み替えが起こり、もとの物質とは違う物質に変化すること」

だそうです。

すみません。理科は苦手科目のひとつで,生物でなんとか点をかせいでいました。物理はさっぱりでした。化学も…化学式をまる覚えで,molとか出てきた時点で沈没しました。

要するに,何かが別の何かに変わるのが化学反応で,その変化の過程に注目する場合特に化学反応と呼ぶ のか?

物質が他の物質に変化する。それって,すごいことではないか(あぁ,前の記事の締めも「それってすごいこと」で終わってる私。語彙が貧困)

そのままずーっと同じではなく,変わっていく。変わる。当たり前のようだが,それはすごい。

例えば,今日保育所に忘れてきた使用済みの息子のパンツ。明日引き取る予定だが,化学変化で違う菌が繁殖しているかもしれない(キャー)。

今日息子が残した煮魚。明日は…食べさせて大丈夫だろうか。

化学反応がなければ,世界は意外と大変なことになるように思う。

ところで,化学反応にもう一つ意味がある

「複数のものが組み合わされて、予想しなかった効果の生じること。」

リンク先にはバレエと歌舞伎の競演と書いてあるが,他にもいろいろありそうだ。人と人との出会いで化学反応が起きることもあるだろう。例えば息子。息子の世界は私にとって異世界だ。息子の行動と私の行動で予想しなかった効果が生じることもある。私の心に感動が残る,とか。

研究でもいえそうだ。

AがBとの作用によって別のものCが生まれる。こうしていろいろなものが生まれていく。

世の中はこうして感動に満ちたものになっていく。だから世界は愛おしい。

 

書評「火の粉」

 例によって私が書評を書くと書評にならない。

火の粉 (幻冬舎文庫)

火の粉 (幻冬舎文庫)

 

 分厚い本だったが,割と一気読みしてしまった。

いや~,怖かった。怖かったけれど面白かった。えー,これAmazonのリンクにとんでもあらすじ書いてないので,ネタバレもできないのか…。ミステリーです,ということだけは書いておく。

創作上の話だが,ほんとに信じられないことをさらっとする人っているんだわ…という感想。そんなに恐ろしい信じられないことをさらっとする人っているんだ…と。途中で誰を信じたらいいのかわからなくなってくる局面もあるけれど

これに限らず,小説(フィクション)(ミステリ含む)を読むことのメリットって,創作上ではあるけれど,こんな人もこの世の中にいるんだ,こんな人も世の中にいるのかもしれない,って思えることだと思う。

人が一生の間に出会える人の数なんて限られている。フィクションノンフィクション含め,本やドラマをたくさん見たら,いろんな人に会える

それってすごくない??

 

我慢は美徳か

我慢は美徳 みたいな考え方がある。

良い子はわがまま言わない。良い子は我慢する。ほしいものがあっても自分の気持ちを押し殺して他人に合わせる。

誰の人生ですか,それ。

もしも我慢して他人に合わせるのが良い子だったら,私は良い子良い人でなくていいし,息子にも良い子良い人になってほしくはない。

我慢して,何言われても我慢して,過労死した人がいるじゃない。

つらいのに我慢して,死ぬことでわかってもらおうと死を選んだ人がいるじゃない。

だったら我慢は美徳なんかじゃない…

「みんな頑張ってるんだから」「みんなしんどいんだから」のこわさ

あぁ,疲れた,もう嫌だ,しんどいよう,もう無理だ,誰か助けて,泣きたいよ,と愚痴った時に,「みんな頑張ってるんだから,あなたももう少し頑張りなさい」「みんなしんどいんだから」と言われることがたまにある。

それで「あぁ,私だけじゃないんだ。みんな,誰しもがしんどい思いをしてそれでも生きているんだ」と勇気づけられる人もたぶんいると思う。

ただ,私はそうではなくて「みんな頑張ってるんだから」「みんなしんどいんだから」の,みんなって誰だと思ってしまうのだ。そして,確かにみんな頑張ってるし,みんなしんどいのかもしれないけれど,私は私で,私にしかないしんどさがあるんだから,お願いだから「みんなしんどいんだからあなたも頑張りなさい」みたいなことは言わないでほしい,と思うのだ。

相当ひねくれているのかもしれない,私。

でも「みんな」とか「普通は」という言葉が出てきたときは,基本的に要注意だと思うのだ。みんなって誰かはっきりしない。一般的なというのもはっきりしない。「普通」はもっとわからない。何が普通なのか。

みんなは普通はやってることだから,あなたもやりなさいよ。

一般的にみんなそうだから,あなたもやりなさいよ。

その言葉に,どれほどの暴力性が秘められているのかと思う。

みんなはそうかもしれないけど,私は私のやり方がある。私は私の思うとおりにしたい。私は私で私の気持ちをもっているし,みんなとか普通とかいう言葉で踏みつぶされたくない