「気持ちわかるよ」の難しさ

日常生活で悩んでいる人と関わるとき、「うん、気持ちわかるよ」と言いたいけれどその言葉を発するのに躊躇することがある。

人は人、自分は自分、人の気持ちは人の気持ち、自分の気持ちは自分の気持ちだから、簡単に自分以外の人の気持ちがわかるわけはないのだ。でも、きっと似たようなつらい思いや悩みを抱えているのはわかるから、「わかる」と言いたいけれど、そう言ったら相手に申し訳ないような気がして、いつも「気持ち、わかるような気がするけれど、本当にはわかってないのかもしれない。でもわかりたいと思う」という。

困っている人って、そんなものではないのだろうかとも思う。自分は悩んでいる苦しんでいる、助けてほしい、誰かに気持ちをわかってほしいと思う一方で、自分の悩み苦しみは自分の悩み苦しみで固有のものだから、安易にわかるなんて言ってほしくない、と。

私は心理学を専門にしていて、専門領域も限りなく臨床に近い所にはいるが、臨床心理学関係の資格は全くもっていないのであまり偉そうなことは言えないが。

心理学者としても1人の人間としても。

人の苦しみ悩み傷みいたみ(痛み、傷み)他人が何とかしてくれるわけではない、自分が何とかするしかなくて、そんなもの当人が一番よくわかっていて、でも苦しくて他者に助けを求める(求められない人もいると思う。一歩踏み出してくれたらとも思う)。助けを求めた経験も求められた経験もある。個々の事例について、うまくいったかどうかはわからない。知人に助けを求めてかえって知人を苦しめ、知人との関係がこじれたこともある。知人に助けを求められて、重くなって、こちらから関係を断ちたくなったこともある。

結局は「気持ち、わかるよと言いたいけれど、そんな簡単にはわからないと思うからそうは言えないけれど、わかりたいと思うよ。何か私にできることがあったら言ってね」という結論にしか、私はならなかった。

いろいろしてあげること、与えてあげることだけが愛ではなく、そばにいて見守ってくれること、自分で歩き出すのを待ってあげるのも愛だというのは昨日のエントリーにも少し書いた通り。

自分の人生、自分のもの。悩みだって苦しみだって、自分の宝。