私が研究でめざしたいところ

「普通」「みんな」とはどんな人で,何かということを最近考えることがある。特に健康心理学,ポジティブ心理学精神障害の分野でそう考えている。

「多数派」であり「生きづらさを抱えていない人」「精神科の病院にかかっていない人」が「普通」であり「健常」であり「みんな」であり,精神科の病院にかかり,何らかの精神的病気の診断がくだった人は,「特別な人」「かわいそうな人」「援助されるべき人」「少数派」とみなされてはいないか,ということである。

精神の病だと診断された人,あるいは精神科の病院・メンタルクリニックに通っている人は,「特別な人」「援助されるべき人」なのかというと,そうではないという気がする。

ポジティブ心理学では,精神症状と幸福感の2 軸で精神的健康を捉え,その組み合わせで人間の状態を4 つに分ける論がある(Keyes & Lopez, 2002)。こんな単純にざっくり分かれませんよという論もあるかもしれないが,これによると,人間は…私の解釈も加えるが

「完全な精神健康状態(精神的健康も良い,幸福感も高い,まぁこれが一般的に”理想的”なんだろうか)」,

「不完全な精神健康状態」(精神的健康は良いが幸福感は低い。内心こう思っている人がけっこう世の中多数派のような気がする。「精神科にかかるほどじゃないけど,なんか幸せじゃないな,あーあ」みたいな),

「不完全な精神障害状態」(精神科にかかって精神疾患の診断を受けているが幸福感は高い。精神科にかかっているけれど,それでも幸せだ,と),

「完全な精神障害状態」(精神科にかかって精神疾患の診断を受けている人で,幸せなんて感じられないよ。もうダメだ…人生の底だ…という人)

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で,「精神疾患と診断された人」「メンタルクリニックにかかっている人」は,みんな図の左側の「精神障害状態」で,「かわいそう」「援助してあげねば」「助けてあげたい」「判断力も鈍っているから健康な僕が○○してあげよう」というふうに「社会的弱者で何にもできない人」と思われているような気がする…のは私の思い込みすぎだろうか。

「精神健康状態」…メンタルクリニックにかかっていないし,精神疾患と診断されていない人が,みんな幸せかというと,そうでもない気がする。メンタルクリニックに行ってみようかな,でもしんどいわ,メンタルクリニックの敷居は高くて…予約もいっぱいだし…という人も多数いるように思う(精神的疾患やうつ病の認知度があがってきた昨今,各地の精神科,心療内科メンタルクリニックはどこも混み合っていて,初診の予約すらとりづらいし,ネットで評判の高いところは特にそうだというのは事実ですが,メンタルクリニックに行くことは別に恥ずかしくもなんともないとは思う私)。

私の研究は,究極的には「世の中に生きる人が,自分の強みを自分で見つけて,”ふつう”の状態から”より幸せ”に生きることができればいいな」というところを目指すものだが,もうちょっと細分化すると「つらいこととかしんどいこととかしんどい状態に直面すること,人,場合はあるけれど,それを財産にして,もとどおり”ふつう”の状態にもどるのではなくて,前よりもっと高い地平にいけないか」というもので,PTG(ポストトラウマティックグロース,心的外傷後成長)に少し近いところに関心があるかもしれない。

精神疾患状態の人は生きづらいけれど,それでも自己決定権はあるし,その人はその人として生きているし,精神疾患ならではの生きづらさしんどさはあるけれど,それは決して「援助される人」「助けてあげられるべき人」「かわいそうねと思われる人」ではない。その人達はその人達で生きているし,それなりにやっているし,下に見られたりあわれまれたりするものではないと思う。「精神疾患だからかわいそうでしょ」ではない。その人達はその人達の意見,人権,自己主張,幸せになる権利がある。助けてほしい場面は”ふつう”の人よりも多く出てくるかもしれないが,それは,そのぉ,一般的にそんなもんじゃないんだろうか。人は支えて支え合って生きているんじゃないだろうか。

ということで,来年度は精神疾患にある人を「精神症状を有していても幸福感が高い不完全な精神障害状態」に近づける介入方法を探るための基礎研究,をぼちぼちはじめたいなぁと思っていて,将来的には,精神症状をもつ人に対してポジティブ志向(私がずっと研究してきた概念)を高めるための臨床介入プログラムを開発するプログラムを開発したいなぁ,なんて思っている。

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