決意と人間宣言(?)
私が他の誰でもない「私」として生きることは,とても簡単なことにも思えるし,とても難しいことのようにも思える。実はとてもシンプルなことにも見えるし,とても奥の深いものだとも思える。
どう生きるのがいいのか私にはわからない。
たぶん,それは私にしかわからない。
いろいろな人がいろいろに助言をくださっても,わからない。私が私の道を決める。
では,他の誰でもない「私」,他の誰でもない「自分」とは,居るのか。
居るだろう。
私は私。あなたはあなた。あなたの身体,気持ち,感覚,容姿,感じたこと考えたことその他は,すべてあなた自身のものであり,他の誰とも違うあなた自身のもの。私の身体,気持ち,感覚,容姿,感じたこと考えたことその他は,すべて私自身のものであり,他の誰とも違う私自身のもの。
だから「私」と「あなた」は違う。違うひとりひとりが,それぞれ違って,この世の中にいる。似ている人はいるが「違う人」。
だから,私の生き方…今日何をどう過ごすか,何をするか,何を食べて何の用事をしていつ寝るかというささいなことからから,過去どう生きてきたか,将来どう生きてどういう夢をもつかという大きいことまで,私の生き方は私が決めるもので,他の誰に決めてもらうものでもない。アドバイスをもらっても,それはアドバイスであって,最終的に決めるのは私。他の人の生き方…Aさんの生き方…今日何をどう過ごすか,何をするか,何を食べて何の用事をしていつ寝るかというささいなことからから,過去どう生きてきたか,将来どう生きてどういう夢をもつかという大きいことまで,Aさんの生き方はAさんが決めるもので,他の誰に決めてもらうものでもない。アドバイスをもらっても,それはアドバイスであって,最終的に決めるのはAさん。
だから,他の誰とも違う私は「居る」。他の誰とも違う「あなた」も,「居る」。
では,自分は,私は,何によってつくられるのか。
発達心理学・青年心理学の世界では,「私が私であるという感覚」をアイデンティティと呼び,アイデンティティを確立することが青年期の課題であるとエリクソンは提唱したということが一般的知識となっている。連続性と斉一性が必要であると。
連続性と斉一性は青年期に感じられたとしても,私は他の誰でもない私であり,私の生き方は私が決めるということは青年期だけでなく,一生モノの課題であるという気が私はしている。
いわゆる「いい子」であった私は,これまで他の人に生き方を決めてもらったり,他の人にいいと言われる生き方をしたり,してきた。自分の人生を自分で決めていなかった。
いま,ようやく「他の誰でもない私」として生きる決意ができている。
私,自分,は,何からできているのか,どういうふうにしてつくられるのか。それは周りとの関係の中でつくられる。人はひとりでは生きられない。他の誰でもない私,他の誰でもない自分をつくってきたのは,環境,周りのものごと,周りの人々。それを選び取ってきたのも私。他の人に生き方を決めてもらったり,他の人にいいと言われる生き方をしたりという人生を選び取ってきたのも私。
それはそれで私の人生。他の誰でもない私の人生。私の財産。
いま,一歩ずつ,「他の誰でもない『自分』の考え,感覚」を大事にし,自分の好きなものを好きと認め,自分の苦手なものを苦手と認める生き方をしようとしている。自分が選ぶもの。
今までの人生全部無駄だったとは思わない。ただ,欠けていたものもたくさんある。そしてこれからも,完璧な人生は送れない。絶対正しい人生は送れない。
それでいい。
浄土真宗の親鸞聖人は,偉い人だと言われているが,煩悩があって煩悩から人は逃れることができないということを認めたと言われている(不勉強でこのくらいしか理解していません…)
人生,思うようにいかないこともある。失敗もたくさんする。
たとえその過程で生きづらさを感じたとしても,「あぁまたやらかした」ということがたくさんあっても,これまでの自分は一生懸命生きてきた。私なりにいいと思うことをしてきた。
堂々と自分の人生に対峙し,自分の弱さに対峙し,自分の生き方をすることを,ここに宣言する。自分の気持ち,心,身体を大事にし,自分自身を自分で守ること。他人がいくら認めてくれても欠落感があるのは当たり前だ。自分で自分のことを認めていないのだから
弱さも失敗も言い訳しない。堂々と生きる。弱くてごめんなさいなんて言わない。それは言い訳。失敗してごめんなさいでも仕方なかったの~なんて言わない。それは言い訳。弱さも失敗も含めて私。こけながら,試行錯誤しながら,徐々に「私」を見つけていき,私の人生を生きます。