楽しい時間が終わるとき
楽しい時間が終わるときは,いつも,せつない。友達と会っていたけれどお別れの時間が近づいてきたとき,大好きなオーケストラや吹奏楽団,合唱団の演奏会が終わってしまう時,意義深い研究会が閉会を迎える時。
「終わるとき」は,たいてい,せつない。それが好きなものであったり,楽しかったりすればするほど。
終わって戻る場は,日常。「淡々とした日常こそが幸せなのだ」とどこかに書いたような気がするようなしないようなだが,日常はやはりいろいろしんどいこともある。家事,育児,仕事のルーティンワーク。何の楽しみもなく自動的にこなすものごと(育児はいろいろ発見があって楽しいけれど)
ましてや,戻っていく日常が自分にとって過酷なつらいものであるならば,余計にせつなく,やるせない気持ちになる。その場合,日常は“戦い”でありうるからだ。何と戦うかは場合によって異なると思うが。
涙が出てくる。
恐怖に駆られる。
やるせない気持ちになる。
力が抜けて,もうどうでもいいという気になる。
自分は無力だという気になる。
しかし,私には「書くこと」がある。「書くこと」が私を支えてくれている。
それから,楽しかった時間の記憶も,こころの中できっと私の支えになっている。
大丈夫,なんとかなるよ。
だって私達,しあわせになるために生まれてきた。しあわせのかたちはきっと人それぞれ。Aという人にとってしあわせであることが,Bという人にとってしあわせでなかったりする。Cという人にとって何の価値もないつまらないことが,Dという人にとってはかけがえのないものだったりする。
そうやって,やるせない気持ちや恐怖と戦いながら生きている人は,少なくないと思いたい。私が,そうだから。