場 とは

当事者研究という分野がある。私は当事者研究とは何なのか未だにちゃんと勉強していないが「弱さの情報公開」かなと思っている。そして,当事者研究が何かわからないまま,NPOそーねという団体の当事者研究会に頻繁に参加している…というか他の団体の当事者研究にはあまり参加していない…。

npo-sone.jimdo.今日は「場」の話になって,とても有意義だった。いま,私は安心できる場がない。家であまりゆっくりできなくて(ちょっといろいろありまして),家にいても常に過緊張の状態で,いつも「~べき」「~ねば」に追われている気分で,家にいると常に「しっかりしなければ」で緊張でがちがちになっている。緊張で睡眠が浅かったりもする(子のためにしっかりした親じゃないといけないと思ってるからかも? 配偶者が時間を守るタイプだからかも?)。実は実家もそんなに落ち着ける場所ではない。スーパーのフードコートやコンビニの休憩スペースもあるが,まさかそんな場所でぐっすり眠るわけにもいかないし。

というわけで今日は当事者研究会の場に寝にいったようなものだ。ほとんど。

そこで思ったのは,「場」とは空間的な場所的な「場」に限らないな,と。場という言葉は使われていたが,私はそれを場所としてだけの意味に捉えなくて,なんというか,領域? 自分が自分であることができて嫌な思いをせずリラックスできる心でいられる時間と空間,つまり自分スペースがあるということが,大事なのではないかと思った。

ただ,最近はスマホというものがあり,同じ人が同じ場所にいても心は違う場に向いていたりすることもあるし,LINE1本,メッセンジャー1本で簡単に自分の領域を崩されたりすることもあるかもしれない,と思った。

私は,研究者としての顔も持っているし,あと大学の非常勤講師でもあるし,主婦であり妻であり母である。それぞれに「使い分け」はしているし,それぞれで「やらなければいけないこと」「こうあるべき姿」がある(いや,私があると思っているだけで本当はないのかもしれない)。じゃなくて,私が私であることができる場・時間というのは大事で,「ここまで,この時間は私の場所だから。私は私だから」というのを持ってそれを自分で守ること,また他人のそれを侵害しないことは,大切なんじゃないかと思った。

子育てについてもそう。子どものためによかれとおもっていろいろやっちゃうけれど,子どもは子どもで自分の場をもっているし,親だからと言って勝手に口や手を出すことは避けたいなと思った。

本当は正しいとか間違いとかないのかもしれない。こうあるべきというのもないのかもしれない,というか,ないね。私がこだわっちゃうだけなんだけれど。

正しい,間違い,こうすべき,こうすると世間体がいい,そういうのにこだわらずに,自分をもって,自分で決めて,そう決めたことには自分で責任をもつ,ということを目標にしたいと思った。

最後の方は場の話からずれたけど。親としてふさわしく正しい親でありたいというのにどうしてもこだわっちゃう私は,「親でもない」「主婦でもない」”私”である時間空間を確保することが必要なのかもしれない。

ということで「主婦たる者,一家の家計を節約するためにぜいたくなどするべきではない」という「べきねば」からいったん自分をときはなって,直近の記事にあげた2冊の本を買っちゃおうかな~といま思っている。

最近印象に残った本

 

 

坂の途中の家 (朝日文庫)

坂の途中の家 (朝日文庫)

 

 再読だったのだが(実は2年前ほどに読んでいたのに図書館で借りてしまったのだ),そのときよりも実感をもてたというか。

「娘を殺した母親は私かもしれない」と帯にある。子どもを殺すという点では重ならなかったが,その他の夫婦関係や親子関係,主人公や被告人が追い詰められていく様子,主人公=被告人=私 だ! と思った。

 

死にたい、ですか

死にたい、ですか

 

死を考えることができた。死ぬということ,死にたいという気持ち,死ぬしかないという気持ち,その背後で生きるということ,まさに「死にたい、ですか」という話だった

正しい生き方は,ない

自分自身が揺れて揺れて大揺れで,という状態であるのと,あと特に「研究者」「大学非常勤教員」「妻」「5歳男児の母親」という肩書を持っているからかもしれないけれど(いや,複数の肩書をもつのはなにも私に限ったことではないけれど)

正しい生き方,こうあるべきという生き方はないのではないか,と思う。

巷には,生き方指南書,育児指南書,「こうすればラクに生きられる!」「~~したら生きやすくなりました!」「子育てでは~~しなさい」「~~の育児」という本があふれていて,ネットにもそういう記事はあふれていて,読んでしまうと,あぁ私の生き方間違ってるのかなぁって自信がなくなる。もっとこうした方が私は成長できる! もっとこうしたら子どもはよくなる! がんばりましょう!

…それ,疲れませんか? やめませんか? ねぇ私。そしてもしかしたら私に似ているみなさん(似ているけど違う人なので,私に似ているみなさんのことは知りませんが)。

いろいろな人が私にいろいろなことを言います。親,きょうだい,親族,友達から,自分に着いて「あなたはこうだね」「あなたはもっとこうしたらいいんじゃない」と言います。

それは,私にとってとてもありがたいことです。なぜなら,私のことを思って,いろいろとアドバイスをしてくれて,こうしたらいいのではないか,ああしたらいいのではないかと言ってくれるからです。ありがとう,みなさん。心を寄せてくれて。

でも,最終的に決めるのは私で。私らしさで私の方法を決める。それは私の責任において。

本に書かれていること,他者が言ってくれたこと,みんな,間違いではないと思う。その人その人の経験から言ってくれたことだから。でも,本も他者も,私のことを全部知ってるわけじゃない(そもそも自分が自分のことを知らないんだから!)。間違いではないけれど,それが自分にぴったりフィットするかどうかは自分が決めるもの。

自分のペース,自分の感じ方,自分の「~したい」。

いま,私は私の感じ方,私の「~したい」が,ちょっとわかりにくくなっています。でも「なんかいらいらするな,あーっもう! 私,あなたのために…してるのにっ! ええいむかつくぅ!」ていう気持ちや「~~できるかな,~までに…しなくちゃ(緊張)」という感覚が出て来たら,たぶん危険信号。

私は,他の人には嫌われたくなくて,いい人ねすごいねって評価をもらいたかった。そりゃ,人間だから嫌われたくないよねぇ誰しも?? いい人ねすごいねって言われたら嬉しいよねみんな??と思っていた。んで,そういう生き方をしてきた。

まぁ,嫌われたくはない。いまも。

でもそれで,自分が生きにくくなって,他者のために滅私奉公してるならそれは。

何かをして,相手がこたえてくれなくて「あなたのために~したのに!! 期待裏切りやがって!」と思ったとしたら,それ完全にひとりよがりですから。何かをしたのは私,頼まれもしないのにやったのは私,それで「あなたのためにやったのに期待にこたえてくれない」とか言われたら,相手も気ぃ悪いですわな。

というわけで,正しい生き方をめざすのはやめました。誰かのために生きるのもやめましょう。私は私のために生きましょう。

息子については産んだ責任があるので養育はしますが,別の人間なので,必要以上に介入するのはやめましょう。自分のことは自分でする。今は5歳なのでできないことが多いけれど,入院生活でだいぶ自分のことが自分でできるようになったことがわかったので,できることは,させる。

自分が自分の道を生きようとするときに,わからないときは,感覚をとぎすませて,それでもわからなかったら,結局自分の「好き」が芯になってくると思う。だから私は私の「好き」を大事にするし,息子にも「好き」なもの,ことを1本つくってほしい。

自分の子育てうまくいきました~,自分はこんな生き方して成功しましたどやすごいでしょ~じゃなくていい。

アホでもいいから死ななきゃいい。命だけは大事にする。

そう考えると,問題のない人なんていないんじゃない? 問題のない親子関係なんてないんじゃない? 普通って何? 「一般的にはこう」の「一般」って何? 「世間体が悪いから」の「世間体」って何? という気がしてくるのです。

私に足りなかったのはたぶん開き直り。あほでいいのです。評価されなくていいのです。どーんといきましょ。

この文章を読んで私のことを嫌いになった人がいたら,それはそれで仕方ない(デモデモ,チョットハ,キライニナラレルノ コワイナ。ワタシヲスキニナッテクレルトイイナ なんてなーーーーーーーー!)

自分で自分の気持ちを~「きみのためには誰も泣かない」

 

 登場人物が入り乱れて,「それぞれの登場人物から見たこの人」が交代交代に書かれるので,名前と特徴が整理できないのだが(読んだスピードが速かったからかも),ということで物語としては印象深くは…

あとがきに印象深い文章があったので引用 p.267,268

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自分の感情と向き合うのは一人の人間として生きる時にとても大事なことだと思っています。だけど,周囲の人との関係を大事にしすぎるあまり,相手が不快感を持つような感情をあらわさないように先回りして,幼いうちからまるで心を封印したかのように生活している人がいることを,わたしはとても心配しています。悲しみや怒りを感じている自分の心に気づかなかったら,それはなかったことになるのでしょうか。自分の心の声を聴くのを自分でやめて無視を決め込んでしまったら,だれが自分のことをわかってやれるでしょうか。どうして受け止めてくれなかったの?と知らず知らずに不満の塊が心の底にたまって,ますます硬直した重たい心になっていきそうです。重い荷物を抱えていたら,友達や大切な人が困っているときに手を貸す余裕がなくなってしまいそう。

 もちろん,そのときの状況や役割によっては自分を抑えて我慢しなくてはならないことがわたしたちの生活にはたくさんあります。「我慢している」と知っておくことこそが,大事だと思うのです。そして我慢できた自分に,偉いねって声を掛けてあげたらいいんです。そういう時間を持っていますか? 自分を大切にするっていうのは,「理想的な自分に近づきたいと思ってもそうなれない自分」のことも自分の一部として大切にできることだと思うのです。自分の心の動きを感じ取れることは,だれかの心を思いやる力にも他人のために心を動かせるやさしさにもつながるんじゃないのかな。人を大切にできる人は,自分のこともちょうどよく大切にできる人なんだろうな。悲しかったりさみしかったり苦しかったりしたときに,だれかが代わりに泣いてナカッタコトにしてくれるわけではないのですから。そんな意味を込めて,逆説的ではありますが『きみのためにはだれも泣かない』というタイトルをつけました。

 だれかの行動がだれかに少しの影響を与え,そのことでまたほかのだれかの気持ちが動いていく。そんな淡い関わり方に憧れています。それぞれに事情があり,良くも悪くも変わった部分があり。,わかりあえない摩擦もあるけれど,知らず知らずに尊重しあっていて。ほんわかした交流があって,この教室にいていいんだな,この学校にはいい子がいるな,って言葉で確認しなくてもなんとなく感じていられるような,そういうクラスに…いたかったなぁ

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自己変革と自分らしさ

生き方を変えたい,と思っている。もう少し自分が生きやすい方向へと。

自分を変えたい,と思っている。もう少し自分が生きやすい方向へと。

ただ,自分の歴史は自分の歴史であって,これまで自分が積み重ねてきた人生は自分のもの。人によってはそれを「個性」と呼ぶかもしれない。そこは変えたくない。

自分らしさとはなんだろう。

青年心理学の「青年と職業選択」の分野の教材をつくっているときに,「『やりたいこと』にこだわりすぎると,かえって就職が先延ばしになったり,安定した収入が得られなかったりする」という内容のことが書いてあった。

自分らしさというものも,肩肘はって考えなくてもいいのかもしれない。「自分らしさ」なんて本当はないのかもしれない。自分らしさって何ー!!と考えると,かえって自分らしさは遠のく。

自分はこうやって生きてきたなぁとか,そういえば人生の選択においてこういう傾向があったなぁというのがたぶん自分らしさで,そこは変えようとしてもなかなか変わらないものだと思う。

そこを完全に「ないこと」にして「変わりたい」は無理なんじゃないかな,とも思う

決意と人間宣言(?)

私が他の誰でもない「私」として生きることは,とても簡単なことにも思えるし,とても難しいことのようにも思える。実はとてもシンプルなことにも見えるし,とても奥の深いものだとも思える。

どう生きるのがいいのか私にはわからない。
たぶん,それは私にしかわからない。
いろいろな人がいろいろに助言をくださっても,わからない。私が私の道を決める。

では,他の誰でもない「私」,他の誰でもない「自分」とは,居るのか。

居るだろう。

私は私。あなたはあなた。あなたの身体,気持ち,感覚,容姿,感じたこと考えたことその他は,すべてあなた自身のものであり,他の誰とも違うあなた自身のもの。私の身体,気持ち,感覚,容姿,感じたこと考えたことその他は,すべて私自身のものであり,他の誰とも違う私自身のもの。

だから「私」と「あなた」は違う。違うひとりひとりが,それぞれ違って,この世の中にいる。似ている人はいるが「違う人」。

だから,私の生き方…今日何をどう過ごすか,何をするか,何を食べて何の用事をしていつ寝るかというささいなことからから,過去どう生きてきたか,将来どう生きてどういう夢をもつかという大きいことまで,私の生き方は私が決めるもので,他の誰に決めてもらうものでもない。アドバイスをもらっても,それはアドバイスであって,最終的に決めるのは私。他の人の生き方…Aさんの生き方…今日何をどう過ごすか,何をするか,何を食べて何の用事をしていつ寝るかというささいなことからから,過去どう生きてきたか,将来どう生きてどういう夢をもつかという大きいことまで,Aさんの生き方はAさんが決めるもので,他の誰に決めてもらうものでもない。アドバイスをもらっても,それはアドバイスであって,最終的に決めるのはAさん。

だから,他の誰とも違う私は「居る」。他の誰とも違う「あなた」も,「居る」。

では,自分は,私は,何によってつくられるのか。

発達心理学・青年心理学の世界では,「私が私であるという感覚」をアイデンティティと呼び,アイデンティティを確立することが青年期の課題であるとエリクソンは提唱したということが一般的知識となっている。連続性と斉一性が必要であると。

連続性と斉一性は青年期に感じられたとしても,私は他の誰でもない私であり,私の生き方は私が決めるということは青年期だけでなく,一生モノの課題であるという気が私はしている。

いわゆる「いい子」であった私は,これまで他の人に生き方を決めてもらったり,他の人にいいと言われる生き方をしたり,してきた。自分の人生を自分で決めていなかった。

いま,ようやく「他の誰でもない私」として生きる決意ができている。

私,自分,は,何からできているのか,どういうふうにしてつくられるのか。それは周りとの関係の中でつくられる。人はひとりでは生きられない。他の誰でもない私,他の誰でもない自分をつくってきたのは,環境,周りのものごと,周りの人々。それを選び取ってきたのも私。他の人に生き方を決めてもらったり,他の人にいいと言われる生き方をしたりという人生を選び取ってきたのも私。

それはそれで私の人生。他の誰でもない私の人生。私の財産。

いま,一歩ずつ,「他の誰でもない『自分』の考え,感覚」を大事にし,自分の好きなものを好きと認め,自分の苦手なものを苦手と認める生き方をしようとしている。自分が選ぶもの。

今までの人生全部無駄だったとは思わない。ただ,欠けていたものもたくさんある。そしてこれからも,完璧な人生は送れない。絶対正しい人生は送れない。

それでいい。

浄土真宗親鸞聖人は,偉い人だと言われているが,煩悩があって煩悩から人は逃れることができないということを認めたと言われている(不勉強でこのくらいしか理解していません…)

人生,思うようにいかないこともある。失敗もたくさんする。

たとえその過程で生きづらさを感じたとしても,「あぁまたやらかした」ということがたくさんあっても,これまでの自分は一生懸命生きてきた。私なりにいいと思うことをしてきた。

堂々と自分の人生に対峙し,自分の弱さに対峙し,自分の生き方をすることを,ここに宣言する。自分の気持ち,心,身体を大事にし,自分自身を自分で守ること。他人がいくら認めてくれても欠落感があるのは当たり前だ。自分で自分のことを認めていないのだから

弱さも失敗も言い訳しない。堂々と生きる。弱くてごめんなさいなんて言わない。それは言い訳。失敗してごめんなさいでも仕方なかったの~なんて言わない。それは言い訳。弱さも失敗も含めて私。こけながら,試行錯誤しながら,徐々に「私」を見つけていき,私の人生を生きます。

振り返りと総括が苦手

改元の年ということで「平成をふりかえる」というのをたくさんやっているが,いまいち苦手である,というか,ニュースサイトを見るのがしんどい?

あんなこともこんなこともありましたね,という雰囲気が少ししんどいというか,うーん,平成時代というと私にとって中学生から中年期にあたるのだが,青春時代はそれなりにいろいろあったなぁとか,特に20代の中盤から自分にとってはとてもしんどい時代だったので,あんまり振り返りたくないというか。

年末の「1年を総括」も苦手だなぁ…。

なぜか自分でもよくわからない,です。ただ,研究者や大学教員としてやっていくうえで,「総括」が苦手というのはあんまりよくないのかな