峯岸みなみさんに感動

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AKB48については,実はよく知らない。昔に総選挙をしていて「神7」という存在があったのねということくらい。篠田麻里子さんは好きだった。AKB48の1期生2期生というくくりも知らなくて,そのへんモーニング娘。とたぶんごっちゃになっている。

峯岸みなみさんについても,確か,以前に坊主頭で謝罪ということくらいしか知らなかった。が,今回AKB48を卒業されたということで,上の記事を読んで感動した自分がいる。

48曲ノンストップってすごくないですか。すごいですよ。

「むしろAKB48に私が必要だったのかわからないですけど、私にとってはAKB48が必要だった」という峯岸さん。

AKB48というグループがどうなるのか知らないし,私がファンになることもないかもしれないけれども,こうしてブログを書くほどに私の心をとらえたAKB48峯岸みなみさん。幸いあれと願います。

終わっちゃった「ダイエット幻想読書会」

1月から隔週土曜の10時から12時,「著者と読む『ダイエット幻想ーやせること,愛されること』読書会」全10回に出席していた。第9回,一番面白そうだった「ふつうに食べるをバカにしない」だけ所用で欠席してしまったが,全部を通して非常に面白かったし勉強になった。人生が深まった。

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この本は,ダイエットや摂食障害についての本と見せかけて,それに限った話ではないということが,終盤につれてだんだん見えてきた。

磯野先生は文化人類学の視点から「食べる」ということや摂食障害について検討しておられる。私は心理学ではある。立場の違いはあるが,私は,磯野先生も,「からだのシューレ」もとても好きで,憧れていて,これまで何度か受講した磯野先生のオンライン講義もとても興味深かったことと,もともとこの本に関心があったことから,参加した。

いま,しみじみ余韻にひたっている。

得たものはいろいろあるので,まとまらない。

最初の方は,承認欲求や認められたいことの話。承認欲求をみんな持っているけれど,それをあからさまにすると,排除されるから,承認欲求を持っていないということを隠しつつそれでも認められたい,ということ。

「ありのままの私」「自分らしさ」の罠。そんなものはどこにもないのに,「ありのままでいいんだ」「自分らしさを大事にしよう」ということが言われること。

「かわいい」の落とし穴。女性はかわいいことが大事にされるこの社会。それがいいとか悪いとかではなくてそういう現状。参加者さんが絞り出すように表現した過去の共有もあった。参加している中で,どう表現するか,言葉を失ったりもした。

第三章の最後の文。「でもこれだけは覚えていてほしいのです」という文で前段落が終わり,1行あいて「あなたは大人になっていい」と書かれているところが,私は衝撃的で好きだ。女性も男性も「大人」になっているのか。大人とは? 

私はずっと容姿に自信がなかったし今もないから,可愛いと言われたり思われたりすることには興味がなかったし,容姿についてはずっとあきらめているが,その代わり小さい頃から成績が良かった。大学に入ると,勉強というかテストで点をとるのがうまいだけで,自分の頭で問題を発見して地道に考察するということはできないことがわかったが,とりあえず,小学校中学校高校と「優等生」でいられたから,それで埋め合わせをしていたのかもしれない。

数字の魔力で世界が消える。この章も興味深かった。数字は何かを評価したり目標にしたりするうえでは役に立つが,ストーリーが消えること。

糖質制限のこと。

中盤あたりからだんだん,「世の中で“健康””からだにいいこと”として流布している情報」とどう折り合いをつけるか,ネットやテレビや報道で,健康にはこれがいいとか,あれがいいとか,よく言われるが,どう情報を消化するか,この中で自分が何をどうして生きていくのかということを考えた。

ふつうに食べる回を欠席したのがなんとも残念だ。

終章のタイトルが好きだ。「世界を抜けてラインを描け!」。素敵じゃないですか。ラインを描く。そして終章を読んでいて私の中にあったのは「らせん」のイメージ。もしくは,えーと,大縄跳び…小学校のときに,大繩でみんなが次々飛んでいって八の字を描いてというのがありましたよね。あれ…。もしくは,回り続ける自転車の車輪。もしくは扇風機。下に貼りつけたのは「大縄跳び」のイメージと,あと,終章に私が一番ぴったりくると思う音楽

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「生きるとは,自分と異なる様々な存在と巡り会い,その出会いに乗り込みながら,互いを作り出すこと。そしてその現れを手掛かりにし,次の一歩を踏み出し,進むこと。生きるとは,そんな出会い,現れ,歩みの連なりであるはずです。」(p.210)

という言葉でこの本の本編が終わるが(その後に「おわりに」が続く),ここまで読んで,この本はダイエットの本でも痩せ方の本でも健康の本でもなくて,「他の人との間で生きるということ」についての本だったのだと思った。

オープンな読書会ではないので,読書会の最中に何があってどういうメンバーがいて,ということはある程度クローズにした方がいいかと思うのであまり書かないが,いろいろな方々がいらっしゃった。すべての方々と言葉を交わせなかったのは残念だけれども,とてもいい出会いだった。磯野先生とも。憧れだったのでちょっと硬直したけれども。

最終章で「タグ付けする関係」「踏み跡を刻む関係」ということが出てきた。私なりに最終章の「踏み跡を刻む関係」で筆者の磯野先生は以下のようなメッセージを伝えたかったのではないかと思う。私の勝手な妄想かもしれないけれども。そしてこう考えることで,私は,この世の中しんどいし,迷うこともたくさんあるし,毎日笑って生きられないし,死にたくなることもあるし,人に裏切られることもあるけれども,それでもなんとか,人の中で,色々な人の中でダイナミックに”生きる”ということをわくわくしながら楽しみながら生きていきたいと思ったのだった。

「自分から,自分で,自分の道を,世界や周囲を巻き込みながら楽しくのびやかに生きていこうよ! そして,そういうふうにのびやかに生きている他者とたくさん出会って,化学反応を起こしてみようよ。化学反応で何が起こるかわからないけれど,それをも楽しもう。他者はこわくない。他者の評価を気にしなくていい。愛されようと他者の目を気にして無限比較に陥ることは苦しい。もう歯をくいしばって頑張らなくていい。あなたはあなたのままでいい。いろいろな人がいる。あるものを持っている人もいるしもっていない人もいる。自分も周囲も刻々と変わるものだ。だから「自分」の「ライン」を描くというのだ。そんな世界はきっと面白い。自分も他人も世界も変わるし変えていい。変わることを恐れなくていい。栄養学の知識や健康という数字・言葉で切り取られた頭でっかちで感覚のない機械的な世界を生きているのではない人間。身体をもって,感覚をもって,無限定空間の何が起きるかわからない世界を生きることを楽しもう。」

わぁ。すんごい私なりの解釈だ。

終わりに。毎週土曜日の10時から12時という忙しい時間帯を共有して下さった磯野先生と参加者の皆さんと,それから,「10時から12時までオンラインだから許して!」と言って,しゃーないなと認めてくれた夫と息子,落ち着いて2時間私が読書会に参加することを許容してくれた夫と息子に心から感謝します。ごめんなー。その間,夫と息子は遊びに出ていたり「あつまれどうぶつの森」を一緒にしたりしていました。

近況報告

どこに向かって,何を目指して頑張っているのかを見失い,毎日余裕がなくてきりきりしていて,肩書きにとらわれている今日この頃。方向性を見失い,色々な人に助けてほしい,手伝ってほしい,助言をもらいたいと訴え,さて自分はどんな人にアドバイスをもらいたいのかなと考えたときに「何か違う」と思った。 どんな人にアドバイスをもらいたいかではなくて,私がどう生きたいかだ。

昨夜から今日にかけて,年賀状を見直したり,SNSの友達リストを見直したり,自分のスマホの写真や日記を見直したりしていた。今までずいぶんたくさんの経験をしてきて,ずいぶんたくさんの人と出会って来た。 

人よりもずいぶん時間をかけて在籍した大学・大学院と博士の学位。研究室の先輩,同期,後輩。研究会や学会で出会った様々な先生方。 

妊娠と出産。子育て中に出会った様々な人。ママ友とのつながり。いろいろな子育てのあり方。女性が仕事を抱えながら子どもを育てるということ。保育所の先生。 

非常勤講師としての教育の中で出会った,たくさんの学生と,先生方。心理学を教えるということ。 

自分が病気をして出会った医師,看護師,心理士,栄養士,同じ病気を抱える仲間,その病気に支援者として関わる人々,家族として関わる方々。 

今年で私は40代半ば,息子は小学生,夫も少し年上,今の身分で「こうであらねばならない」にとらわれてきて,最近,視野がぎゅぎゅぎゅーっと狭くなっていたが,もっと気楽にいってもいいのではないかと思った。 

したいことがたくさんある。まだまだ死ねない。 

心理学を続けたい。いま,「心理学の研究を続けたい」と書こうと思ったが,研究を続けたいのかどうかよくわからなくなってきた。研究も続けたいが,何をもって研究とするのか。幅広い。大学で非常勤講師をしてきた経験から,心理学の教育にも関心がある。それから,実践にも関心がある。今まで25年心理学ひとすじできたから,心理学を,続けたい。 

精神障害摂食障害,生きづらさを抱えている人間のひとりとして,何かしたい。その「何か」が何かはわからない。まず自分の健康が先だと思ったりする。心理学を勉強している立場と,患者としての苦しさがわかる立場として,先行く仲間にもいろいろ教えてもらいながら。 

本を書きたい。どうやら書くことが好きらしい。発信し続けたい。 

もちろん家族が最優先。息子と夫としあわせのかたちを見つけ続ける。 

私のアイデンティティは心理学者だとずっと思っていたが,それ以外の面もあるので,別にどうでもいいと思ってきた。 

最近「ダイエット幻想読書会」に出ている。終章のタイトルは「世界を抜けてラインを描け!」ということだった。一読すると,結局,自分が何者であるか,どうありたいかというのは,他者との間で育まれるもので,それはいろいろ変わりうるのかなと思った。 

今の身分であるのは限られた期間なので,その後はどうなるかわからないけれど,心理学に関わる者として研究と教育の活動は細々とでも続けたいし,そのための努力もしたい。成果は何年かかるかわからないけれど。そして,精神障害摂食障害や依存症を抱える当事者と支援者をつなぐ何かをしたい。ゆっくり生きていきたいので今後ともよろしくお願いします。

精神障害,摂食障害とその回復

精神障害摂食障害とは何か。また,回復のためにどうすればいいか。

第1に,障がいを抱える者どうしが同じ立場に立って,心身ともにお互いを助け合っていくことではないだろうか。また,助ける目的は,代わりにその人の人生を生きてあげるということではなく,あくまで本人が自分自身の人生を自分自身で幸せにするために自立した人生を送るということに置く必要があると思われる。幸せのかたちも実現のしかたも個々人で異なるからである。上から目線で「助けてあげる」「治してあげる」ではなく,症状を抱える者どうしがというところがミソではないだろうか。

また,摂食障害を抱える者は自分自身を蔑ろにすることが多いため,自分自身の心と体を大事にするための活動も大事だと思う。運動をしたり,マッサージや呼吸法を行ったりなど。

そして,余暇を豊かに過ごすことも大切だと思う。あまり考えすぎないこと,粘土や折り紙,可愛いものを集めること,

それから,よく食べてよく休むことに罪悪感を持たないこと。働きアリにならないこと。

最終的には自分の幸せは自分でつくり自分で決めるという覚悟と勇気だと思う。人間は容姿が価値ではない。自分の幸せを自分でつくれること,「生きていていいんだ」と思えること,「生きていていいんだ」と思えなくなった&心身の調子を崩した時の頼る先を多数持っておくことが,豊かな人生を作り出すことになると思う。

今日,会って言葉を交わした人,LINEやmessengerやzoomでやり取りした人すべてにありがとう。温かく照らしてくれたおひさま,風,自然にもありがとう。

いろいろありがとう。(なんか遺書みたいですが死にませんから!)

映画 鬼滅の刃無限列車編

映画「鬼滅の刃 無限列車編」を見てきた。

映画の中で、煉獄杏寿郎の母のセリフで「生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。弱き者を助けることは強く産まれた者の責務です」というものがあった。

 

現実世界では、私たちは誰もが煉獄杏寿郎のように強く産まれているわけではないし、100%強く産まれている人がいるわけではなく、誰もが強い部分と弱い部分を持っている。人と人とを比べてこの人はこの人より劣っているとか、あの人はあの人より優れているとかを人間トータルで判断することはできない(学力とか、体育の測定値とかは測れることは測れるがそれがすべてではない)

言い換えれば誰もが強くない

強くないが、自分の持っている力の一部を世のため人のために使うことはできると思う。誰もが。そうやってお互い助け合って、みんなが生きやすい社会ができればいいなと思う。

理想論だろうか。

もちろん力の一部は自分を豊かにするためにも使うし、自分がある程度満たされていなければ世のため人のために動けることは難しいけれど、満たされていない人も、他の部分でできることはないかなと思う。いましんどい人、生きづらい人に、すぐに「お前も頑張れ!やれることはやれ!」と言っているのではない。そういう人は今は休む時休むべき人。少し浮上したらまず自分を満たして、支えて支えられて、一緒に生きていければいいと思う。

映画自体の感想としては、さすがという感じがして泣けた。最後がまさかああなるとは。精神の核をという部分は心理学的にも面白かったし、音楽も絵もきれいで生き生きしていました。なんならもう1回見に行ってもいいような気がします。パンフレットには3回見ろと書いてありました。

 

なりたい私になっているだろうかと考える。

周りの人がみな自分より素晴らしく見える。

自分は見た目も悪いし美人でもないし、生きる力はないし、なんというか情けない。

自分にいいところは1つもないような気がする。

そんなことないよと言ってほしい気がするが、結局のところ自分でそう思えないと仕方がないのだ。

 

藤川球児の引退セレモニーを見ていた。感動した。

この道1本、野球一筋で生きてきた人だと思った。記録にも記憶にも残る人だと思った。

彼のピッチングは火の玉ストレートと言われていたという。

何をしてきたんだろうな私。

私もこの道一本というものが見つかればいいと思った

ドラえもんと居場所

突然だが星野源の「ドラえもん」は名曲だと思う。
もともとは息子が運動会で踊るので聞き始めたが、最近元気がないときにいつも歌っている。
まず、ドラえもんの主題歌に「ドラえもん」とタイトルをつけるのがすごい(「ぼくドラえもん」でもないし「夢をかなえてドラえもん」でもない。単に「ドラえもん」)
そしてよく聞くと歴代のドラえもんのメロディーが使われていたりする(「「あったまてかてーか さえてぴかぴーか」のメロディーとか)。
歌詞もストレートにキャラクターのことを歌わないけれど2番の「拗ねた君も 静かなあの子も 彼の歌も 誰かを救うだろう」は明らかに主要キャラだ。
何者でもなくても世界を救おうと歌いあげられる。
ここにおいでよ 一緒に冒険しよう 何者でもなくても世界を救おう と
~~~
居場所がない とずっと思っていた。し、今でもそう思っている。家族の中でもあんまり…。家の事務的なことはやるけれど、実質家庭を動かしているのは夫だし、息子も夫の方に懐いている気がする。
本業の研究もできることはしているけれどなかなか進まない。
居場所は作ることができる。最近新しい居場所ができた。
もしかするとそこは永遠の居場所ではないかもしれない。複数の居場所が人間には必要なのかもしれない。
そこで、自分のできることをしようとしたりすることで、笑える時間も増えたし、家庭でも少し明るくいられるようになった。心身の健康も少しずつ取り戻しつつある。
誰も何者でもない。けれど、誰もが何者かである。
ここにおいでよ一緒に冒険しようやってみようと誘ってくれた仲間がいた。仲間とつながれた。冒険している。どこへ辿り着くかは知らない。
でも、私は信じている。輝く未来へ辿り着くのだと。誰もが輝く未来へ辿り着くのだと。
私は、いま、一見、ごく当たり前の日常にいるし一応の社会生活を営んでいるが、そこへ辿り着くのが心身の疾患のために難しい人もいる。社会に居場所のない人もいる。
精神疾患は甘えではない。努力で改善するものでもない。社会にたどり着くのが難しい人もいる。精神病院やメンタルヘルスケアに1本電話をかけるのも難しい人もいるし現実予約待ちが多い。
その人たちも生きやすい社会ができたら、それはいわゆる「精神疾患を抱えない人」にとっても生きやすい社会であるはずだと信じる。
ガジュマルという名の船に乗って、幸せという名の海に漕ぎ出そう。お菓子もチョコレートもお団子もスコーンもごまペーストもジェノベーゼパスタも、美味しいものをいっぱい積み込んで、お酒もちょっと積み込んで。